March 28, 2024
もう一つのルネサンス。ヴェネツィア絵画の色彩の魔法。
ティツィアーノ作《受胎告知》の前に立って感受する。
イタリア北東に位置するヴェネツィアは、アドリア海上に人工的に建設された、運河が網の目のようにめぐる世界でも類例のない不思議な都市である。運河沿いに華麗な大理石の建築が並び、青空からの陽光が海面や運河に反射する。ヴェネツィアは伝承では5世紀に建国。中世後半からルネサンス期にかけて、東西貿易の拠点としてヨーロッパで最も豊かな都市の一つとなった。ドージェ(元首)のもとに共和政を行い、晴朗至高の共和国と称えられてきた。交易や人々の交流によって地中海、東方、フランス・ドイツ・フランドルなど多くの文化の影響を受け、独自の建築・芸術を生んだ。15~16世紀にはルネサンス発祥の地フィレンツェと並ぶ高度な絵画様式であるヴェネツィア派を確立した。
ヴェネツィア・ルネサンスは、1440年頃にフィレンツェに数十年遅れて起こったのだが、フィレンツェやローマのルネサンスに比べると、日本ではそれほど知られていないかもしれない。しかし美術史上、重要であり、後世の画家に与えた影響力の点でも特筆される。このヴェネツィア・ルネサンス絵画を日本で初めて本格的に紹介する展覧会「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」が、日伊国交樹立150周年を記念して実現した。東京の国立新美術館と大阪の国立国際美術館の2会場を巡回。ヴェネツィアにあるアカデミア美術館の所蔵品を中心とする57作品により、15世紀後半から17世紀初頭(1630年のペストの大流行で終焉)にかけての約150年間の流れを一望する。なお、そのうち約25作品が優れた修復を経ての公開だとのことだ。東京会場である国立新美術館を廻ってみた。
■巨匠ティツィアーノ晩年の代表作《受胎告知》
大変な大きさである。縦は4mを超えているようだ。何か重大なことが起こっていることを直感させる。神秘性とドラマ性があり、観る者の感情に直接的に訴えかけ、同時に敬虔な気持ちにさせる。なぜなのだろう。
これは、16世紀に活躍したヴェネツィア派最大の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90~1576)が70代に描いた、晩年の代表作《受胎告知》(1563~65年頃、油彩/カンヴァス、ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂)である。ヴェネツィアのサン・サルヴァドール聖堂に架かる大祭壇画だ。
本作の前に立ち、仰ぐようにして近くから眺めてみた。自分の目に近い画面下半分では、まず左の白い光を浴びた大天使ガブリエルに目が行く。大天使は少し前にこの場所に忽然と現れたようだ。両手を身体の前に交差させ、右足を前にして羽根を広げたまま真っ直ぐ前を見ている。視線の先には赤い衣装と青のマントを身にまとった美しい顔立ちの聖母マリアがいる。その顔と身体半分に光が注ぐ。マリアは読んでいた祈りの書を閉じて左手でもったまま、右手は頭のヴェールに触れて少し持ち上げ、大天使の方を驚いたように振り向いている。右の足先が見える。
後ろに下がって、今度は作品全体を眺めてみる。画面上から中央に向かって天を割くように、白い鳩がまばゆい光を浴びながら大変なスピードで舞い降りる。神々しさと激しさが重なる。周りにはたくさんの可愛い天使たちが様々なポーズで飛翔する。右上のマリアの頭上にいる小さな天使は、両手が大天使と同じポーズで呼応が見られ、そして足を伸ばしたまま空中に浮かんでいる様子があどけなくて印象深い。背景には全体に厚い雲が漂う。聖母と大天使の間の暗闇にヴェネツィアの景色が垣間みえる。筆触は粗く勢いがある。一方、聖母の手前に置かれた処女性を象徴する透明なガラス瓶は写実的な描法だ。
本作は、天から神の光が聖母に射し込み、神の子が聖母に宿った受肉の瞬間を表すという。聖母マリアの元を訪れた大天使ガブリエルが聖母に受胎告知を告げ、聖母と胎内に宿ったイエスを崇敬している。ティツィアーノは、その色彩の錬金術と卓越の動勢により観者に物語を感知させ、祈りの場としての芸術を創出した。彼が晩年に到達した境地である。
●ティツィアーノ ティツィアーノはジョヴァンニ・ベリーニ(1424/28?~1516)の工房で習練を積んだのち、早逝した先輩画家ジョルジョーネ(1476/78頃~1510)と共にヴェネツィア派の黄金時代を築いた。彼はベリーニの明るい色彩表現を学び、また素描を重視するフィレンツェ・ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1517)やミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)からの刺激を受けながら、特に、優れた牧歌的風景や官能的な裸婦像に革新を行った先輩画家ジョルジョーネから多くを吸収した。
初期には精緻な古典様式の絵画を制作し、1518年に《聖母被昇天》(サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂主祭壇画)にて名声を得、躍動感のある構図と耀く色彩による様式を確立。宗教画、神話画、肖像画をともに得意とし、ヴェネツィア共和国の公認画家となった。またフェラーラ、マントヴァ、ウルビーノの宮廷やハプスブルク家をパトロンとし、ローマ教皇庁からも招聘され、国際的な活動を行った。晩年には、粗い筆触と、燃えるような色彩の絵画を生み出した。ティツィアーノの絵画の特徴は、彩色を素描のように機能させ、明暗と色彩を調和させたこととされる。後のピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)、ディエーゴ・ベラスケス(1599~1660)やオーギュスト・ルノワール(1841~1919)らに影響を与えた。
■ヴェネツィア派の師ジョヴァンニ・ベリーニの《聖母子(赤い智天使の聖母》
ジョヴァンニ・ベリーニによる《聖母子(赤い智天使の聖母)》(1485~90年、油彩・板、ヴェネツィア、アカデミア美術館)は、静謐な優美さの中に深い親子の情愛が滲み出る作品だ。青空が映える上空に白雲に乗る鮮やかな赤色の6人の智天使と、くっきり描かれた丘と川の自然風景を背景として、聖母が膝に抱えた幼子イエスを見つめる。手すりに聖母のマントの一部が架かり、観る者と画面の橋渡しをするようだ。ベリーニは1470年頃から活動。大きな画家工房を運営し、後進を指導しつつ、ヴェネツィア派の様式を確立した15世紀の巨匠である。彫刻的な人体表現と明るい色彩による光の表現を特徴とし、宗教画と肖像画に秀でた。16世紀のヴェネツィア派を牽引するジョルジョーネやティツィアーノの師でもあった。
■ヤコポ・ティントレットの《動物の創造》
ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)(1519~94)の《動物の創造》(1550~53年、油彩/カンヴァス、ヴェネツィア、アカデミア美術館)は「創世記」の神の世界の創造の場面だが、楽しくて思わず見入ってしまった。画面中央で空中に金色の光を浴びた神が、衣を翻し左に向かって飛翔する。周りには沢山の生き物たちが、多くは左に向かって進む横向きの姿で描かれる。右側は鹿や一角獣や兎などの陸の生き物がおり、左側には水鳥や奇妙な魚など水の生き物が力強く飛翔し、泳ぐ。その表情や動きに独特の愛敬がある。本作はサン・マルコ聖堂のモザイクやラファエッロ・サンツィオ(1483~1520)の作品から影響が指摘される。隣に置かれた《アベルを殺害するカイン》(1550~53年、油彩/カンヴァス、ヴェネツィア、アカデミア美術館)とともに連作の作品である。ティントレットは初めはティツィアーノの門に入るが、ローマ滞在を機にミケランジェロの人体を研究。その後、極端な遠近法や短縮法、明暗法を使用した劇的構図の大作を多作し、肖像画も得意とした。エル・グレコ(1541~1614)に多大な影響を与えたことでも知られる。
■パオロ・ヴェロネーゼの《レパントの海戦の寓意》
パオロ・ヴェロネーゼ(本名パオロ・カリアーリ)(1528~88)の≪レパントの海戦の寓意≫(1572~73年頃、油彩・カンヴァス、ヴェネツィア、アカデミア美術館)は迫力と敬虔さがあわさり、華麗な印象をもたらす。上方の雲の上に優美な聖母マリアを取り囲む人々を、下方には海上にひしめく数多の軍艦が激しく闘う様子を描く。1571年10月7日のレパント海戦である。雲間から清らかな光が軍艦に注がれる。本作は、ヴェネツィアを含むキリスト教諸国連合軍がオスマン帝国軍に勝利したこの闘いが、聖母のご加護によるものであることを示している。ヴェロネーゼはティツィアーノの影響を色濃く受けながらも、華麗な色彩と、調和のとれた明朗な古典主義的の様式を創り出し、富裕な貴族層に好評を得た。ヤコポ・ティントレットと同時代に活躍した。
先に挙げた作品以外にも、会場には多くの画家の名作が並ぶ。ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド(1480頃~1548以降)の《受胎告知》(1538年頃、油彩・カンヴァス、ヴェネツィア、アカデミア美術館)は窓に見える鮮やかな青色の空と機知に富む構図、そして聖母と大天使ガブリエルの穏やかな心の交流の様子が心に残る。内面までも描き切った多くの肖像画群も一つの章を設けて展示されている。会場でお好きな作品を見つけていただければ、と思う。
【参考文献】
1)セルジュ・マリネッリ[イタリア側監修]・越川倫明[日本側監修]監修、国立新美術館・TBSテレビ 編集:『日伊国交樹立150周年記念特別展 ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』(展覧会図録)、TBSテレビ 発行、2016年
執筆:細川 いづみ (HOSOKAWA Fonte Idumi)
(2016年9月)
※会場内の風景画像は主催者側の許可を得て撮影したものです。
写真1 東京展会場風景。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《受胎告知》、
1563~65年頃、ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂。(撮影:I.HOSOKAWA)
写真2 東京展会場風景。
左から、ボニファーチョ・ヴェロネーゼ《父なる神のサン・マルコ広場への顕現》(「受胎告知」三連画より)、
1543~53年、ヴェネツィア、アカデミア美術館。
ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド《受胎告知》、1538年頃、ヴェネツィア、アカデミア美術館。
(撮影:I.HOSOKAWA)
写真3 東京展会場風景。
左から、ヤコポ・ティントレット《アベルを殺害するカイン》、1550~53年、
ヴェネツィア、アカデミア美術館。
ヤコポ・ティントレット《動物の創造》、1550~53年、ヴェネツィア、アカデミア美術館。
(撮影:I.HOSOKAWA)
写真4 東京展会場風景。
左から、パオロ・ヴェロネーゼ≪レパントの海戦の寓意≫、
1572~73年頃、ヴェネツィア、アカデミア美術館。
パオロ・ヴェロネーゼ《悔悛する聖ヒエロニムス》、1580年頃、
ヴェネツィア、アカデミア美術館(サンタンドレア・デッラ・ジラーダ聖堂より寄託)
(撮影:I.HOSOKAWA)
【展覧会欧文表記】
Venetian Renaissance Paintings
From the Gallerie dell’Accadmia, Venice
【会期・会場】
東京展
2016年7月13日~10月10日 国立新美術館
[電話]03-5777-8600(ハローダイヤル)
大阪展
2016年10 月22 日~2017年1月15日 国立国際美術館
[電話]06-6447-4680(代表)
【展覧会HP】http://www.tbs.co.jp/venice2016/
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