January 12, 2026
「ぼくは写真家ではない!」
と何度も何度も否定を、自分自身のことを繰り返す、受動性が支配する世界に生きている古屋誠一の言葉は、非常に興味深い!!!
「文章の書けない奴は、写真が撮れない」
「文章で説明できることは文章ですればいい、写真はそういうものではない」
と言うように、自らの考える「写真家」の定義は”まず何を撮りたいのか、表現したいのかなどとテーマを決め、シリーズやタイトルを決めて撮る”こととの違いや”劇的な場面、美的な構図を追い求めるような写真”ではなく、日常生活のなかで一瞬ひらめきを感じるような場面に遭遇したとき「ただ」撮るという基本の姿勢、日常の出会いの記録をしているようなものだからだと言う。
クリスティーネと出会った時に書き綴った言葉が哲学的であり、印象的である。
「・・・・・初めて出会ったその日から彼女の写真を撮りはじめた。
彼女のなかに、目の前を通り過ぎる女性を、モデルを、時には私の愛する女性を、
そして時には、私に帰属する女性の姿を見た。
私にとって多くの意味を持つ女を撮り続けることが義務であるように感じている。
写真を撮るということが、ある意味で時間と空間を定着することでもあると考えるなら、この作業、一人の人間の生を記録し続けるという行為は非常にスリリングなことである。
彼女と向かい合うこと、彼女を撮ること、そして彼女の写真のなかに見ることで、
私は同時に『私』を見ること、発見することになる。
1978年2月17日から1985年10月6日まで、7年8ヶ月の間、出会った日からその死の前日まで彼女の写真を撮り続けたことになる。
クリスティーネが死んで四半世紀が過ぎようとしている。
1989年から8冊の写真集を出版している。
精神を病み、やがて死に至った妻の謎を、解きがたい何か複雑な関係の網を手探りであぶりだそうともがいている。クリスティーネは今もなお生きている。
写真のなかで毎日のように彼女と会い、言葉を交わしている。
“写真の時間”のなかで、単なる記録としての写真ではなく、写真が生き、語りかけてくる。自分も生かされている。と霊魂を感じている。
なかなか人間の複雑な根源的な霊性・感性・情性が漂っている!!!
最後の言葉として、
「写真は一つの言葉に触発されて、さらなる言葉を発見する過程において、丁度その中間辺りに不安定な状態でぶら下がっているようなもの、新しい世界の認識への橋渡しをするメディアでもある。人は必ず負の世界を自己の内に抱えているが、それを外に出さずに生きている。哀しみや苦しみといった負の感情も、人が生きていくうえでは欠かすことの出来ない豊かさをもたらすもの・・・。」
ヘドデル キドリンスキー
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