芸術広場|Office I Ikegami blog

富士定景-富士山イメージの型

戦後70年 プロパガンダとしての表象
IZU PHOTO MUSEUM で7月5日まで

   今年は戦後70年。尊い命が犠牲になった過去を忘れず、平和な世の中を築くためにも、戦争につながる宣伝に惑わされないよう、日々の状況に注意を払うことが必要だろう。
   静岡県・長泉町のIZU PHOTO MUSEUMで7月5日まで開催中の「富士定景ー富士山イメージの型」では、富士山を被写体とした写真を、観光、皇族、博覧会などの表象から検証。中でも、「富士山とプロパガンダ」の章では、古来から霊峰として畏れられ、崇められてきた富士山が、戦時中に戦意発揚のプロパガンダとして頻繁に使用されていたことに着目している。

●木村伊兵衛、土門拳らも国策を報道
   富士山が描かれた楽譜を手にした子どもたちが、天孫降臨の地とされる高千穂の峰をバックに「愛国行進曲」を歌う姿が表紙となっている「写真週報」の1938年の創刊号は、その顕著な例だ。撮影は木村伊兵衛。内閣情報部が編集した週刊のグラフ雑誌で、「カメラを通じて国策をわかりやすく国民に伝える」という趣旨のもとに発行された。
   同年8月3日の第25号では、土門拳が撮影した日独伊親善協会主催の「防共盟邦親善富士登山」を4ページにわたって掲載。反ソ、反共を目的に、日独伊防共協定が締結されたのを記念して、日本、ドイツ、イタリアをはじめ、ハンガリー、スペイン、満州国などからの代表団や学生たちが富士山に登ったイベントの様子をとらえている。日の丸やハーケンクロイツの旗を掲げて頂上を目指す参加者の様子や空を仰いでナチス的敬礼をするドイツの青年の姿、富士吉田で熱狂的に歓迎する市民の姿などが写し出されている。
   1944年10月4日の341号の表紙は、富士山を遠景として戦車に乗る少年兵の写真とともに、「天翔ける翼に 熱風捲く鉄牛に 富士の高嶺と勲を競ひ 莞爾 国難に立つ 陸軍少年兵 ゆくぞ 僕らも」という言葉と「志願期間十月三十一日まで」と書かれた少年兵の募集告知となっている。撮影者は不明だが、多くの写真家たちが国策のプロパガンダに組み込まれていったことが見てとれる。

●アメリカの巧妙なプロパガンダ
   また、日本と同様にアメリカも巧みに富士山を利用していたことを、米軍のB29から撮影された多数の写真などから紹介している。
   1944年にマリアナ諸島が陥落すると、本土のほとんどの都市が米軍の爆撃圏内に入ったことでB29による空襲が始まった。その際に、雲の上に顔を出す富士山が、空の灯台の役割を果たしたことを示すのが掲出の《題名不詳 (東京へ向かうB‐29編隊)》などの写真だ。富士山を拠点に東に行けば横浜、東京、西に行けば神戸など、ニ手に分かれて爆撃目標の各都市に向かったという。
   また、1945年8月5日の「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」には、B29を製造したボーイング社の宣伝として、富士山の上空を飛ぶB29の写真が掲載されている。見出しには「平和を作る者たち」とあり、その翌日に広島、4日後に長崎に原爆が投下され、10日後に日本は敗戦を迎えることになる。
   1945年9月2日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリの艦上で日本の降伏文書調印式が行われた様子を示した切手にも富士山が大きく描かれている。本展を企画した同館研究員の小原真史氏は「この日は夏にはなかなか見えない富士山がよく見えたようだ。甲板には、幕末にペリー艦隊が日本に来航した時に使用していた星条旗と真珠湾攻撃の際にホワイトハウスに掲げられていた星条旗が飾られ、100年越しの日本への勝利、あるいは日本の近代化へのアメリカの力を示す周到なイメージ作りや演出が行われ、アメリカが高いレベルでのプロパガンダを行っていたのがわかる。富士山と軍艦のイメージが、日本に勝った日のシンボルとして、ずっと記憶されていく」と述べる。
   この日米の富士山をめぐるプロパガンダとその後の展開は、7月18日から同館で開催される「戦争と平和―伝えたかった日本」で報道写真としての観点から改めて紹介されるという。

●岡田紅陽の富士から見えるもの
   生涯に40万枚以上の富士の写真を撮影し、「富士の写真家」と呼ばれた岡田紅陽。1943年に昭和天皇に贈った《神韻霊峰 七面山》は宮内庁を経て正式に献上された初の写真作品とされている。今回展示されている《麗容 七面山》は、《神韻霊峰 七面山》とネガは同じだが、敗戦後、神から人間になった昭和天皇にならうかのようにタイトルが変えられた。
   日本の象徴として存在する富士山。戦争の渦に巻き込まれ、利用されるその姿は、人間の業を浮かびあがらせる。

⑦

   なお、この展覧会では第2部「富士山と気象 阿部正直博士の研究」と題し、雲の博士として知られる阿部正直が、富士山にかかる雲の定点観測を行った研究を写真や資料で紹介している。

執筆:西澤美子

参考文献
『富士幻景 近代日本と富士の病』 監修・著 小原真史 発行:IZU PHOTO MUSEUM 2011年

写真キャプション
①「写真週報」創刊号  1938年2月16日 表紙撮影:木村伊兵衛
②「写真週報」25号  1938年8月3日 撮影:土門拳
③「写真週報」341号 1944年10月4日
④撮影者不詳 《題名不詳(東京へ向かうB‐29編隊)》アメリカ軍 1944‐45年(上),
   撮影者不詳 《題名不詳(B-29と富士山)》1945年 (下)
⑤ ボーイング社広告 (「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」1945年8月5日より)
⑥ 戦艦ミズーリでの「降伏文書」調印式 (マーシャル諸島) 1995年 切手
⑦ 岡田紅陽《麗容 七面山》1943年(手前)
※作品画像はすべてIZU PHOTO MUSEUM蔵

 
「富士定景-富士山イメージの型」
1月17日(土)~7月5日(日)※水曜休館(但し4月29日、5月6日は開館、5月7日休館)
IZU PHOTO MUSEUM(静岡県長泉町東野クレマチスの丘〈スルガ平〉347-1)
☎055‐989‐8780
詳細 http://www.izuphoto-museum.jp/


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